JBL Vol.10 松浦理英子 「奇貨」

奇妙なタイトルである。
その名も「奇妙な貨幣」という意味。
中編と呼ぶべき長さで、ついこのあいだ読み始めたと思ったのに、気付いたらもう残り数ページ、という気分にさせる。
しかし、その内容の密度、言葉の緻密さ、物語の面白さたるや、といった感じで、ページを開いたら最後、視線は紙面に釘付けとなり、ひたすら文字を追い続けることとなる。

松浦理英子について、わたしは「セバスチャン」を読んだ切りで、親しみを感じながら接してきた作家、という感は全く無い。
寡作な作家ゆえ、追い続けることもそう難しくはなく、一度その足跡を辿ろうとすれば、あっという間に現在に追いついてしまうだろう。
「セバスチャン」を読んだとき、この人はなんて魅力的な造形としてセクシャル・マイノリティを描くのだろうか、と感心した。
耽美主義者の端くれとして、こういった作家が書き、そして相応に評価される土壌が存在することを喜ばしく思った。

しかし、それきり、その足跡を追うことはなかった。
どうしてかははっきりしないのだが、先に述べたように、その足跡を辿ることが比較的容易だったということも、関係しているのかもしれない。
スローリーダーのわたしでさえも、購入することのできる作品を読み切ることはそう難しくない、そう考えたがゆえに、あえてすぐに手を伸ばそうとしなかったのか。

そのまま、わたしは松浦理英子の作品を手に取ることもなく、ときどき本屋の棚や新聞書評で目にする程度となっていった。
しかし、この作品で、わたしは再び松浦理英子の作品と再会することができた。
きっかけは、読書好きの友人から勧められたことによる。
その友人のおかげでわたしはより多くの本に関する知見を得、読書の幅そのものが一回り大きくなった。
そういった感謝してもしきれない相手からのお勧めだから、何一つ迷うことなく、本書を手に取った。

そして、わたしはこの物語に触れているあいだ、心がずうっと揺さぶられているような感覚に晒された。
津村記久子の「君は永遠にそいつらより若い」という、わたしがとても大好きな小説のあとがきを、松浦理英子が書いていた。
そこに、彼女は
「あらゆる小説が読む者の魂を揺さぶるために書かれる、という普遍的な考えは存在しない。しかし、それでも、魂を揺さぶる物語は存在する」
ということを書いているが、わたしにとってこの「奇貨」という物語はまさにそれで、読みながら魂は震え、読後、わたしはなんだか救われたような気さえした(ちなみに、津村記久子の「君は〜」も魂が揺さぶられた)。

いまや中堅と言われる年代に属する作家が、これほど瑞々しく現代の、そう、極めて現代的なセクシュアリティの複雑さを、しかも右に出る者がいないだろう精緻さで描き切ったことに、わたしは感動を憶えた。
この作家は、セクシュアル・マイノリティという魅力的且つ深淵な問題をデビュー以降一貫して書き続けているのだろうけれど、彼女は決してある時代の、固定化され、無時間的になったイメージのみを追う、あるいはそれをルーティンな軸として扱うのではなく、時代によって流動し、常に可変的である価値観を、その変化と並走するスピードで見つめ続け、そして、それらをすべて自らの血肉として扱う術を得ているようだ。
それは、加齢によってどんどん退屈、且つ怠惰が顕著になっていく、ベテラン気取りの作家にあるような手抜きとは対岸にある、小説への真摯な態度であり、また、時代への諦めとはほど遠い、ある無邪気さをはらんだ希望でもある。

「萌え」ってなんだ?
草食系男子とか、最近の男はだらしない。
BLなんて、なんだか気持ち悪い。
同性愛なんて、説明不可能だ。
男と女の友情なんて、昭和やら平成やら、そんな時代とかいったこと関係なく、成立するわけないだろう。

これらの発言は、すべて「奇貨」という小説が見事にひっくり返してくれるだろう。
彼らは自ら目を閉じ、耳を塞いでいる。
現代に対して、変化に対して、他者に対して、諦め、盲目的に嫌悪し、否定の言葉の持つ悪辣な強さだけに頼る、そういった根源的な怯えに対して、この物語は世界を開こうとする、奇妙なパスポートである。

登場人物たちは皆一様にどこかわたしたちであり、それゆえに汚れているし、美しくもある。
寂しく、常に不足していて、でもそれが何かはよく分からない。
突然、はたとそれに気付くが、しかし、それに関わる重要なことの多くが過ぎ去っていることにもまた気付かされ、ひとり嘆き、しかし、それでも足掻こうとする。
「わたし」という存在、あるいは「他者」、それを物語、あるいはキャラクターという鏡像を通して発見できることも、また、この物語の魅力である。

side music : ZNR “一般機械論”

 

JBL No.9 伊藤計劃 「ハーモニー」

読み遅れた、という感覚はいつもわたしに付き纏うが、はて、その「読み遅れた」という言葉自体になんの根拠があるのだろうか。
時流に乗り遅れる、という感性とはちょっと異なる、なんというか、もっと早く知っておきたかった、という後悔にも似た、しかし、やはり後悔ではないグニャグニャしたものがそこにはある。
 
本を読む、あるいは出会うということにおいて、そのベストな時期、それもある普遍性を抱えたものが存在するのだろうか。
これは、恐らく、存在しない。
本、あるいは物語と出会うという出来事はある必然性を持つとわたしは考えるが、そのオカルティックにも聞こえる直感に従ってみれば、誰もが同時にある本に出会うというタイミングが存在するというのは、それこそオカルティック、あるいはフィクショナル、ファンタジックな事象ではなかろうか。
村上春樹がノーベル文学賞にノミネートされ、それを追うように「1Q84」が刊行される、そしてそれを機に多くの人々が「1Q84」を買い求める。
しかし、その購入者の多くはページを開くこともなく終わり、一方では数ページに目を通しただけ本を閉じ、そのままその本はその人によって開かれることはない。
気付けば、古本屋に「1Q84」の中古本が山積みにされ、在庫過剰になり始める(これは「1Q84」Ⅰ、Ⅱ巻のハードカバーが発売されて1ヵ月後あたりに、実際に当時勤めていた古本屋で起こった出来事だ)。
他方、ブームに乗って「1Q84」を購入して、その本を開いたとき、彼(あるいは彼女)は暗闇の中で突然、光を浴びたときのような眩しさにクラクラし、しかしそれと同時にその光の美しさ、愛おしさに陶酔するように、物語との出会いに至福を見出し、喜びに震える人だっているだろう。
つまり、本や物語のと出会いは、時流などとは断絶した、ある個人史にベッタリとへばり付いた出来事だと、わたしは考えている。
だから、「読み遅れた」なんていう感覚は、それこそ杞憂でしかないのだ。

それでも「読み遅れた」という感覚は常にわたしの心を捉えようとする。
それはわたしの意志がそういう嗜好を持つということだろう。
深い意味はないし、絶対的な根拠も無い。
 
カート・コバーンが生きているあいだにニルヴァーナを知っておきたかった、と中学生の頃に考えたし、フガジがリアルタイムであれば良かった、なんてことを高校生の頃に考えていた。
パンク・オリジネイターから自分はなんて距離があるのだろうとウンザリしたこともあるし、チャーリー・パーカーの生演奏を聴いた人々はどれほど震えただろうと憧憬する。
「構造と力」の社会的なインパクトを生で体感したかったし、南米文学ブームに乗って次々と翻訳されるマジック・リアリズムに耽溺したかった。
ゴダールの新しい作品を次々と劇場で見るという同時間性に狂喜したかったし、ヴェンダースやジム・ジャームッシュの登場に愕然としたかった。
そして、伊藤計劃が存命中に彼の作品に触れ、遠くからでも届かなくてもいい、彼の仕事に最高の賞賛を送りたかった。

すべては間に合わなかったこと、という後悔よりも、そうしたかったこと、というただの反実仮想的な願望に過ぎない。
その願望にはやはり、正当性などほんの僅かにも無い。
それに、カートが生きている頃にニルヴァーナを知っていたら、わたしは本当にニルヴァーナが好きだっただろうか、という疑問が沸くし、パンクなんて野暮で馬鹿な奴らがやるものさ、と冷笑したかもしれない。
「構造と力」の軽やかさに鈍重さで抗ったかもしれないし、ゴダールの退屈に怒り狂ったかもしれない。
そもそも、SFにまったく通じておらず、ちょっとした畏怖を感じながら、一方でゼロ年代という言葉に大きな懐疑を抱えていたわたしが、話題になった当初に伊藤計劃の「虐殺機関」を手に取らなかったのは当然だったのだ。
その「当然さ」の方が、いくらかの根拠と正当性を持つではないか。

だから、「読み遅れた」という願望への反省は極めてナンセンスで、それ以上にその本や物語に出会ったタイミングそのものの「強さ」というものは、個人史において巨大な一点であるという意味において揺るがない。
同時に、個人史に楔を打ち込むことのできる物語そのものの強度というものは、おそらく、ちょっとした時間程度では変化することなく、読者を揺さぶるのだ、読者を囲む社会に反響するのだ、ということも、また、事実だろう。

伊藤計劃は長編を三冊、短編をいくらか、そして、多くのSFファン、文学ファンの期待や夢を膨れに膨れ上がらせた話題作、円城塔との共作(正確には、伊藤計劃が生前に書き残した大まかなプロットを元に、円城塔が再構築したという形式)「屍者の帝国」、あとは個人サイトにずっと連載していた映画・SF批評だけを残して、34歳の若さで帰らぬ人となった。
そのうち、彼の名を一気に世に広めたのがデビュー作の「虐殺機関」、そしてそれに続く(結果として遺作となってしまった)「ハーモニー」だ。

伊藤計劃の作品はとにかく面白い。
まず最初にこれを言っておいても全く問題が無いとわたしは思う。
むしろ、彼について書くにあたり、ただそれだけで十分ではなかろうか、とも思う。
ただ読み進めていくだけで、問題意識や物語の主題が明らかになるという彼の筆致は、驚嘆に値する。
彼の作品について書かれた文章や批評を読むよりも、まず彼の作品を読んでみることをお勧めする。
どんな本でもまずはそれそのものに当たってみるべきなのは、もはや語るまでもないのだろうが、しかし、かと言ってそんな大量に読む時間も特技も無い、というのが一般的な考えだろうし、もちろん、わたしも同意見を振りかざす。
しかし、そういう立場に半身を置きながらも、伊藤計劃に関しては、余計な解説は読む際の妨げになり得る、ということすら考えられる。

少しだけ、彼の作品の魅力について書いてみる。
これは、わたしと考えや態度に似たところがある人々に向ける。
SFに警戒心を持ち(あまり読んだことがないから。理数的な事柄に自信が無いから)、ゼロ年代という囲い込みの胡散臭さにウンザリしている人々だ。
彼の作品の魅力、及びその強度を維持している最大の要因は、今、わたしたちが生きているこの場所から、この時代の感性から、物事を演繹し、その延長線上にあり得る物語を書き上げているということに尽きる。
対岸の火事だと、村落的意識からくる無関心で眺めていたテロリズムが、急にリアリティを帯びてわたしたちの日常の延長線上として可視的になった。そういったここ最近の出来事を通して、読者に対し、物語の濃度をより深くしただろう「虐殺機関」。
福祉社会という、安楽なのかぬるま湯地獄なのか分からない、というこれまた昨今(特にTPP問題が持ち上がったあたりから)の疑問に対してクリティカルな物語を立ち上げた「ハーモニー」。
これらは、彼が存命中には、テレビやインターネットなどのメディアを通して目に入れていながら、あるいはその足元から腰あたりまで浸かっていながらも、しかし、その意識の優先性において随分と後退させられてしまっていた問題群である。
彼は、自らの思考と身体を通して、その問題に深く立ち入り、言葉が辿り得る道筋を推考し、世界を拡張させる。
それは、SF者以外が想像する、突飛でなんだか想像に難い、それこそ言葉として安易に使われる悪しきSF的な世界観ではなく、目の前の物事がグニャリと歪んで、よく考えれば初めからそうであったのような生成変化を遂げた未来/物語である。
SFへのおっかなびっくりな態度はここで改められ、わたしは自分の無知を嘆いたほどだ。
多分、わたしのような人間が伊藤計劃から得られる最大のものは、現代という状況に対して怯え、変化するモノ/コトに対して無意識的に生成された薄い皮膜のようなものを、一刻も早く破り捨てなければいけない、という気付きである。
それをこんなにも楽しませながら遂行してしまう作家に、やはりわたしは敬服する。

現代思想にたゆたっている人々を十分に満足させられるだろうことも、ついでにここに付記しておく。
ヴィトゲンシュタイン、フーコー、ドゥルーズ/ガタリ、ネグリ/ハート、アガンベン……彼らの思想を貪欲に取り込み、美しくも残酷な物語へと昇華する作家の力に、きっと感服するだろう。

side music : Jah Wobble “Mu”

JBL NO.8 石田千 「月と菓子パン」

連続して、同じ作家の本を読むことが少ない。その理由の一つは、購入方法が主に古本だから、ということが挙げられるだろう。もう一つ挙げるなら、飽き性だから、あるいは、無節操だから。すぐに目移りをして、他の美味しそうなものに飛びつこうとしてしまう。こういう性向の人々は、わたしに限らず、むしろ世間において多数派なのではないか、と思うのだが、どうなんだろう。

そんな中、ときどき、同じ作家を連続して読み続けることも、ときどきある。そして不思議なことに、そういうことは随筆に限って起こる。あるいは、私小説。この二つには体裁としてどこかしら似たところがあるが、しかし、別の観点をもってみれば真逆とも言える。だから、わたしが連続して読む作家に、一貫した共通項がある、と断定することも、難しそうだ。随筆と私小説のように、同異が混在して、あやふやなものが搾り出されそうだ。だから、この点については深く考えない。

石田千は、小説家としてスタートしているが、その名を読書家たちに印象付けたのは随筆家としてだった。彼女がしばらくのあいだ、小説を書かなかったから、というのもあるだろう。しかし、それ以上に、一冊目の随筆である本書、「月と菓子パン」があまりに素晴らしかったから、ということと、それに続いて発表され続けている随筆がどれもこれも魅力的で、また、冊数を重ねるごとにその文章は鋭利に研ぎ澄まされ、余分は要不要のふるいにかけられ、幻想は穏やかに広がり、日常という其処此処の当たり前をますます魅力的に描き続けているから、ということが、彼女が随筆家として多くのファンを魅了して止まない理由なのではないだろうか。

わたしは、石田千の名も、「月と菓子パン」の存在や評判もなんとなく知っておきながら、その本を手にとってみるということを
長らくしてこなかった。ゆるゆるふわふわなエッセイだろう、という先入観が邪魔をし、俺はそんなところに身を落ち着かせる気はないぞ、というトゲトゲした自意識がさらにそれを読むことを拒んだ。ポストモダン以降、前衛なんてもはや存在しない、ということが言い沙汰される中で、それでも書くことや読むことの前衛や、それに似た何かに俺は飛び込んでいくのだ、という青さが(今でも十分青いけど)、石田千に繋がる線を断ち切ってしまっていた。

しかし、ある日突然、彼女の文章を目にすることになった。朝日新聞の土曜版に、「be」という別冊子が毎週付いているのだけれど、その中に載っている「作家の口福」という、毎月一人の作家が週一回のペースで食に纏わるエッセイを書くコーナーがあり、わたしはそれを毎週末の楽しみに読んでいた。食べたものや作ったものをひどく魅力的に書くことのできる作家がいれば、あまりにこのコーナーに不似合い且つ不適合だった作家もいる(かといって、それでその作家の作品や力量が低く見極められる、というものでもないだろうが)、というとても雑多である意味猥雑、そのクジ引きのような軽妙なギャンブル感もまた、楽しいコーナーである。

それは、確か田中慎弥の次月だったのではないだろうか、田中慎弥にはやはり不似合いなコーナーだったなあ、という苦笑を交えた感想を思い出しながら、わたしは新しい月の「作家の口福」を不安と軽い高揚をない交ぜにしながら開いた。その月の作家は石田千、さて、どんなものかと読んでみて、一瞬で魅了された。彼女が書いたのは、あまりになんでもない、下町に暮らす彼女の日々の営みと、その生活の中で唯一作るという常備菜について書いていただけであったのだが、そのなんでもなさが、ここまで魅力的に、性的ではない艶やかさによって描かれていることに驚いてしまったのだ。武田百合子もかくやという、その日常をただ日常として、視線が読み取ったものを言葉が丁寧に、確実に写し取っていく過程に一撃で心酔してしまった。

そして、「作家の口福」の彼女の月が終わった頃には、わたしのベッドサイドに「月と菓子パン」は置かれていて、寝る前に少しづつ、彼女の視線を通して、下町の風景を、あるいは彼女自身を、盗み見た。そこには、恐らく憧憬もあった。整然として退屈極まりない町に住んでいるわたしは、その雑多で、色々な匂いのする場所に、ひっそりと暮らし、視線を常に彷徨わせている著者に、羨望を抱いた。しかし、その羨望を読者に持たせるということ自体が、彼女の文章の魔力によるものである、ということはそれ以上に明らかでった。

細やかな句読点の配置は、言葉が、単語がふわっと浮かび上がり、何気なく流れていくであろう名詞や形容詞が、意味に意味を重ね合わせて重厚な甘味を持つ。一本の線上にあった道行きが突如乱雑に交錯し、視線が時間と空間をあやふやに捉え始め、言葉は軽やかなステップで宙を舞い、突然手の中から離れてしまった風景に読者は戸惑いながらも、その怪しくもモノクロな幻想に酔ってしまう。気付けば著者がときどき迎える、酔い潰れた次の日の朝のように、ぐったりとしながらもその弛緩に身体を預け切る。きっといつか、糸は解れるのだから、それまで、ここにわたしを置かせてもらおう、と。

石田千の魅力は、何も下町の風景の描写に留まらない。それは、「部屋にて」という、部屋にいること、部屋という限定項に身をおくこと、部屋という内省に言葉を委ねること、わたしたちは部屋に戻ってこなければならないということ、を書いた一冊を読めば明らかである。そして、彼女はまた「きなりの雲」という小説で前回の芥川賞の最終選考まで残っている。まだわたしは彼女の小説を読んだことがないので、どうこう言えないが、こちらもそのうち読もうと思う。楽しみは常に、先に用意されている。

side music : Astor Piazzolla Quinteto “ニューヨークのアストル・ピアソラ” ~ Charlie Parker Quartet “Now's the Time”

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