奇妙なタイトルである。
その名も「奇妙な貨幣」という意味。
中編と呼ぶべき長さで、ついこのあいだ読み始めたと思ったのに、気付いたらもう残り数ページ、という気分にさせる。
しかし、その内容の密度、言葉の緻密さ、物語の面白さたるや、といった感じで、ページを開いたら最後、視線は紙面に釘付けとなり、ひたすら文字を追い続けることとなる。
松浦理英子について、わたしは「セバスチャン」を読んだ切りで、親しみを感じながら接してきた作家、という感は全く無い。
寡作な作家ゆえ、追い続けることもそう難しくはなく、一度その足跡を辿ろうとすれば、あっという間に現在に追いついてしまうだろう。
「セバスチャン」を読んだとき、この人はなんて魅力的な造形としてセクシャル・マイノリティを描くのだろうか、と感心した。
耽美主義者の端くれとして、こういった作家が書き、そして相応に評価される土壌が存在することを喜ばしく思った。
しかし、それきり、その足跡を追うことはなかった。
どうしてかははっきりしないのだが、先に述べたように、その足跡を辿ることが比較的容易だったということも、関係しているのかもしれない。
スローリーダーのわたしでさえも、購入することのできる作品を読み切ることはそう難しくない、そう考えたがゆえに、あえてすぐに手を伸ばそうとしなかったのか。
そのまま、わたしは松浦理英子の作品を手に取ることもなく、ときどき本屋の棚や新聞書評で目にする程度となっていった。
しかし、この作品で、わたしは再び松浦理英子の作品と再会することができた。
きっかけは、読書好きの友人から勧められたことによる。
その友人のおかげでわたしはより多くの本に関する知見を得、読書の幅そのものが一回り大きくなった。
そういった感謝してもしきれない相手からのお勧めだから、何一つ迷うことなく、本書を手に取った。
そして、わたしはこの物語に触れているあいだ、心がずうっと揺さぶられているような感覚に晒された。
津村記久子の「君は永遠にそいつらより若い」という、わたしがとても大好きな小説のあとがきを、松浦理英子が書いていた。
そこに、彼女は
「あらゆる小説が読む者の魂を揺さぶるために書かれる、という普遍的な考えは存在しない。しかし、それでも、魂を揺さぶる物語は存在する」
ということを書いているが、わたしにとってこの「奇貨」という物語はまさにそれで、読みながら魂は震え、読後、わたしはなんだか救われたような気さえした(ちなみに、津村記久子の「君は〜」も魂が揺さぶられた)。
いまや中堅と言われる年代に属する作家が、これほど瑞々しく現代の、そう、極めて現代的なセクシュアリティの複雑さを、しかも右に出る者がいないだろう精緻さで描き切ったことに、わたしは感動を憶えた。
この作家は、セクシュアル・マイノリティという魅力的且つ深淵な問題をデビュー以降一貫して書き続けているのだろうけれど、彼女は決してある時代の、固定化され、無時間的になったイメージのみを追う、あるいはそれをルーティンな軸として扱うのではなく、時代によって流動し、常に可変的である価値観を、その変化と並走するスピードで見つめ続け、そして、それらをすべて自らの血肉として扱う術を得ているようだ。
それは、加齢によってどんどん退屈、且つ怠惰が顕著になっていく、ベテラン気取りの作家にあるような手抜きとは対岸にある、小説への真摯な態度であり、また、時代への諦めとはほど遠い、ある無邪気さをはらんだ希望でもある。
「萌え」ってなんだ?
草食系男子とか、最近の男はだらしない。
BLなんて、なんだか気持ち悪い。
同性愛なんて、説明不可能だ。
男と女の友情なんて、昭和やら平成やら、そんな時代とかいったこと関係なく、成立するわけないだろう。
これらの発言は、すべて「奇貨」という小説が見事にひっくり返してくれるだろう。
彼らは自ら目を閉じ、耳を塞いでいる。
現代に対して、変化に対して、他者に対して、諦め、盲目的に嫌悪し、否定の言葉の持つ悪辣な強さだけに頼る、そういった根源的な怯えに対して、この物語は世界を開こうとする、奇妙なパスポートである。
登場人物たちは皆一様にどこかわたしたちであり、それゆえに汚れているし、美しくもある。
寂しく、常に不足していて、でもそれが何かはよく分からない。
突然、はたとそれに気付くが、しかし、それに関わる重要なことの多くが過ぎ去っていることにもまた気付かされ、ひとり嘆き、しかし、それでも足掻こうとする。
「わたし」という存在、あるいは「他者」、それを物語、あるいはキャラクターという鏡像を通して発見できることも、また、この物語の魅力である。
side music : ZNR “一般機械論”